(※2024年11月16日のライブ配信の再公開です)
【呉座勇一の日本史講義】『SHOGUN 将軍』エミー賞受賞記念:石田三成はなぜ敗れた...
の続きです。
江戸時代以来、石田三成評価の基調は「奸臣」でした。
豊臣秀吉の威光を笠に着て横暴にふるまった悪人、というイメージです。
これは当然のことでした。
江戸幕府の創設者は徳川家康であり、
三成は家康の天下取りを阻止しようとした人物ですから、
家康が正義で三成は悪という評価にならざるを得なかったのです。
こうしたイメージの転換に大きく寄与したのが、
司馬遼太郎の歴史小説『関ヶ原』です。
司馬は三成を豊臣の忠臣と位置付けましたが、
一方で潔癖すぎて清濁併せ吞む度量がなく、
生真面目すぎて臨機応変の才に乏しい人物として描いています。
しかし司馬の見方も、
三成が「敗者」になったという結果から逆算して、
三成を不当に貶めているように思えます。
三成は本当に愚将、凡将だったのか、
近年、急速に進んだ関ヶ原研究の最新成果を踏まえて、
3回にわたって再検証していきます。
第2回は、
石田三成の挙兵から、
大坂城占拠、
内府ちがいの条々までを扱います。
(※2024年11月16日のライブ配信の再公開です)
【呉座勇一の日本史講義】『SHOGUN 将軍』エミー賞受賞記念:石田三成はなぜ敗れた...
の続きです。
江戸時代以来、石田三成評価の基調は「奸臣」でした。
豊臣秀吉の威光を笠に着て横暴にふるまった悪人、というイメージです。
これは当然のことでした。
江戸幕府の創設者は徳川家康であり、
三成は家康の天下取りを阻止しようとした人物ですから、
家康が正義で三成は悪という評価にならざるを得なかったのです。
こうしたイメージの転換に大きく寄与したのが、
司馬遼太郎の歴史小説『関ヶ原』です。
司馬は三成を豊臣の忠臣と位置付けましたが、
一方で潔癖すぎて清濁併せ吞む度量がなく、
生真面目すぎて臨機応変の才に乏しい人物として描いています。
しかし司馬の見方も、
三成が「敗者」になったという結果から逆算して、
三成を不当に貶めているように思えます。
三成は本当に愚将、凡将だったのか、
近年、急速に進んだ関ヶ原研究の最新成果を踏まえて、
3回にわたって再検証していきます。
第2回は、
石田三成の挙兵から、
大坂城占拠、
内府ちがいの条々までを扱います。
4:58 講義開始
5:40 直江状
7:19 豊臣公儀
14:05 軍記物・逸話集
15:56 舜旧記
16:05 神龍院梵舜
17:46 備前宰相、豊国社神馬立、幣使権少副、於拝殿、着座…
41:00 板坂卜斎
44:51 永井直勝
1:06:41 「石治部・輝元申談、色立候由、上方より内府へ追々御注進候」
1:13:02 霊社上巻起請文
1:15:23 石田三成、浅野長政
1:15:52 前田利長
1:18:14 芳春院
1:18:53 何の咎
1:31:36 1:33:10「家康の多数派工作は激しさを増し、塵長四年正月中旬に、家康の私婚問題が浮上する。この時、問題とされた縁組の相手は、『関原軍記大成』では伊達政宗•福島正則・蜂須賀家政であるが、編纂史料の中でも成立の早い『家忠日記追加』は伊達政宗のみを記し、伊達成実の『伊達日記』も伊達政宗のみとなっている…おそらく、福島正則と蜂須賀家政の縁談が持ち上がったのは三成が失脚したあとのことではないだろうか」(水野伍貴『関ヶ原への道』)
1:44:27 細川忠興⇒杵築、森忠政⇒川中島
1:48:53 矢部健太郎
2:13:48 「大坂の豊臣奉行衆が三成の挙兵に加担したことを家康が知ったのが7月29日であることは、この日を境にして会津攻めに参加している伊達・最上ら奥羽の諸大名に宛てた書状にも、「上方奉行衆一同の者、鉾楯の由申し来るに付て、会津をさしおき、先づ上洛せしめ候」とか「大坂奉行中相違に付」といった文言が明記されるようになることによって確認される」(笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』)
2:45:35 「(会津征伐に参加した)豊臣系武将たちは2つの類型に大別される…第一のタイプは、義務的動員によって家康と行動を共にしている(会津征伐軍が進軍する東海道筋に領地を有する)一連の武将たちである…第二のタイプの武将たちは、領地が四国や九州にあって、今回の会津遠征には従軍の義務を負わないにもかかわらず家康と行動を共にしている」(笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』)