【呉座勇一の日本史講義】畠山義就⑥ー畠山義就の侵攻と失脚ー
春木で呉座います。
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14,489 views
9月19日(土)20時半より配信予定です。
ミネルヴァ書房『畠山義就』の執筆準備として、
しばらく連続講義を行います。
第6回はついに畠山義就の失脚までを扱います。
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2 Comments
@haru-goza
Creator
3 weeks ago (edited)
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1:14
配信開始
8:12
講義開始
30:39
2代の将軍(足利義教・義勝)の相次ぐ死により、将軍御所である室町殿(花の御所)には義教に滅ぼされた足利持氏・一色義貫や嘉吉の乱で討たれた赤松満祐らの怨霊がいる(義勝の夭折は怨霊の仕業である)との風説も現れたため、将軍御所として室町殿を使い続けることを忌避する意見も出され、当面の間は烏丸殿(資任の邸宅)を将軍御所とすることになりました(家永遵嗣「三魔」)
42:20
足利義教に弾圧され義教横死後に復権した持国は、自分と似た境遇の大乗院経覚に親近感を抱いており、経覚ら反筒井勢力を積極的に後押ししました。
51:50
日野富子の輿入れは康正元年(1455)八月二十七日です。
1:01:38
1:03:39
山城は守護の交替が多かったため、守護の分国支配は不安定でした。ところが畠山持国が山城守護に就任して以降、畠山氏は南山城に積極的に進出し、興福寺領など寺社本所領荘園に強い圧力を加えました。南山城の国人たちは畠山氏の支配に反発し、細川氏に接近しました。(川岡勉『山城国一揆と戦国社会』)
1:09:21
椿井政隆は、山城国相楽郡椿井村(現在の京都府木津川市山城町椿井)を根拠とした山城国衆の椿井氏の末裔とされます。
1:11:55
椿井家には、尾張藩の志水家に仕えた「尾張椿井家」と、故郷に残った「山城椿井家」、そして幕府に仕えて早くに故郷を離れた「旗本椿井家」などが存在します。尾張と山城の両家は近世を通じて交流しており、尾張椿井家文書には山城椿井家から送られてきた史料の写しも含まれています。
1:13:24
新発見の尾張椿井家文書には、「木津渡御代官職」「木津渡舟関」に関する史料が残されています。木津の渡を維持するという広域にわたる利害関係が浮上した時に、「惣」あるいは「惣中」と呼ばれる国衆の組織が解決のために動いており、木津川流域全体に関わる問題が生じた時は、「惣」の集合体としての山城惣国が機能したのではないかと推測されます。
1:25:48
南山城の興福寺領荘園としては、大住荘、狛野荘、和束荘、菅井荘などが有名です。
3
@onakaat
4 days ago
畠山のマも入れて、4魔カルテットじゃ、あかんかったのかな❓
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Comments
【呉座勇一の日本史講義】畠山義就⑥ー畠山義就の侵攻と失脚ー
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9月19日(土)20時半より配信予定です。
ミネルヴァ書房『畠山義就』の執筆準備として、
しばらく連続講義を行います。
第6回はついに畠山義就の失脚までを扱います。
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8:12 講義開始
30:39 2代の将軍(足利義教・義勝)の相次ぐ死により、将軍御所である室町殿(花の御所)には義教に滅ぼされた足利持氏・一色義貫や嘉吉の乱で討たれた赤松満祐らの怨霊がいる(義勝の夭折は怨霊の仕業である)との風説も現れたため、将軍御所として室町殿を使い続けることを忌避する意見も出され、当面の間は烏丸殿(資任の邸宅)を将軍御所とすることになりました(家永遵嗣「三魔」)
42:20 足利義教に弾圧され義教横死後に復権した持国は、自分と似た境遇の大乗院経覚に親近感を抱いており、経覚ら反筒井勢力を積極的に後押ししました。
51:50 日野富子の輿入れは康正元年(1455)八月二十七日です。
1:01:38 1:03:39 山城は守護の交替が多かったため、守護の分国支配は不安定でした。ところが畠山持国が山城守護に就任して以降、畠山氏は南山城に積極的に進出し、興福寺領など寺社本所領荘園に強い圧力を加えました。南山城の国人たちは畠山氏の支配に反発し、細川氏に接近しました。(川岡勉『山城国一揆と戦国社会』)
1:09:21 椿井政隆は、山城国相楽郡椿井村(現在の京都府木津川市山城町椿井)を根拠とした山城国衆の椿井氏の末裔とされます。
1:11:55 椿井家には、尾張藩の志水家に仕えた「尾張椿井家」と、故郷に残った「山城椿井家」、そして幕府に仕えて早くに故郷を離れた「旗本椿井家」などが存在します。尾張と山城の両家は近世を通じて交流しており、尾張椿井家文書には山城椿井家から送られてきた史料の写しも含まれています。
1:13:24 新発見の尾張椿井家文書には、「木津渡御代官職」「木津渡舟関」に関する史料が残されています。木津の渡を維持するという広域にわたる利害関係が浮上した時に、「惣」あるいは「惣中」と呼ばれる国衆の組織が解決のために動いており、木津川流域全体に関わる問題が生じた時は、「惣」の集合体としての山城惣国が機能したのではないかと推測されます。
1:25:48 南山城の興福寺領荘園としては、大住荘、狛野荘、和束荘、菅井荘などが有名です。